『ナルキッソスの怒り』稽古場見学レポート&対談インタビュー

2026.04.14

ウルグアイ出身の劇作家・演出家、セルヒオ・ブランコが2015年に自身の作・演出により初演して以降、南米をはじめ世界各国で上演されたひとり芝居『ナルキッソスの怒り』が、日本初上演を迎える。リアルと虚構が交錯するオートフィクションで描かれる本作に挑むのは、これまで『VIOLET』『ラビット・ホール』でタッグを組んできた、成河と藤田俊太郎。ミュージカル、ストレートプレイといったジャンルを問わず幅広い活躍を見せる2人がどのように本作と向き合っているのか、その稽古場を取材し、稽古後に話を聞いた。

取材日の稽古場は、ひとり芝居ということもあり実にシンプルだった。成河と藤田以外は、その日のクリエイションに必要な少人数のスタッフのみ。密な稽古空間で、成河と藤田の2人が集中して作品と向き合えている様子がうかがえた。

この日取材陣に公開されたのは、学会に出席するためにスロベニアの首都リュブリャナを訪れたセルヒオが、滞在するホテルの部屋でイゴールという美しい青年と会った後、フランスの友人・マーロウと電話で話す、というシーン。成河はこのシーンで、“物語を語るセルヒオ”と“その物語に登場するセルヒオ”と“イゴール”と“マーロウ”の4役を演じている。

成河と藤田は、一動作、一セリフごと丁寧に確認しながら稽古を進めていく。「今、思い付きだけで言ってるけど、こうやってみるのはどうかな?」と成河が提案し、「いいですね、ナイスです」と藤田が応じる場面もあれば、セリフと動きがうまく連動せずに悩む成河に、藤田が「このタイミングはどうですか?」と提案し、「あー、それだね!それだ!」と成河が何度もうなずく場面もあった。また、「このセリフは一回ナシにしたけど、やっぱりあった方がいいね」や、「このセリフを別の言葉に言い換えられないかな」といったセリフの変更もその場で柔軟に行われるなど、出演者と演出が対等にディスカッションしながら作品が徐々に固まっていく様子をリアルタイムで見ることができた。

セリフの変更を行っているときに成河が言った「リアリティだよね」という言葉が心に残った。本作は、「オートフィクション」という虚実が入り混じった構成で、どこまでがリアルで、どこまでがフィクションなのかがはっきりしない。だからこそ全体を通してリアリティが必要だし、そうでないとこの作品は成り立たない。成河が“セルヒオ”を演じ、その“セルヒオ”がセルヒオとイゴールとマーロウを演じ、と演じるレイヤーが何重にもなっている構造の中、今目の前にいるのは誰なのか、この言葉は誰の言葉なのか、誰の行動なのかを観客に届けるには、その人物のリアリティが必要なのだ。

しかし稽古を見ていくうちに、成河がリアリティを持って演じ分ければ演じ分けるほど、キャラクターが鮮やかに立ち上がれば上がるほど、その境界線が揺らぐ感覚を覚えた。成河なのに、成河ではない。セルヒオだけど、成河かもしれない。それはまさに虚実が交錯するような、とても不思議な体験だった。もしかしたら、今見ているこの人は誰なのか、というその問いこそがこの作品の本質をとらえるための鍵なのかもしれない。

稽古終了後、2人に話を聞いた。

──本作はオートフィクションというジャンルになりますが、その点についてお2人はどのように感じていらっしゃいますか

藤田 本作の導入部分でも「これは物語である」と語られています。様々な登場人物がいて、演じ分けがあり、日本で上演する際には「成河さん」という、この作品の主演であり出演者である登場人物がリアリティを持ちながら存在する。僕は虚実を内混ぜにして作られた物語であることが本作のオートフィクションの在り方だととらえています。稽古では、こんなにも日本語というものは豊かで、語り口や語り方がたくさんあるんだということを発見しながら進めていて、お客様に「豊かな物語」と感じていただける作品を作れているのではないかと思います。

──台本の最初の方で、セルヒオさんから成河さんへ「演技はしないように」というメッセージが送られます

成河 オートフィクション自体は、文学において割とオーソドックスな方法だと思いますが、演劇での上演となった時、本作について言えば「ポストドラマを装った非常にウェルメイドなドラマ」をセルヒオさんが作ったと考えています。そのポストドラマの装い方というのが非常に本気で、セルヒオさんの友人の本当の話を台本に混ぜ込んだことで本作は出来上がっています。それをあくまで俳優が演じるという形を取ることが重要で、今回日本で上演するにあたって完全な書き換えが必要になるし、僕が演じるには、僕がしゃべる言葉、僕の口語の文章を作る必要があったので、でもそんなことは実現しないだろうと思って、実は最初にお話しをいただいたときはお断りしようと思いました。でもプロデューサーの江口さんがそこは柔軟に対応してくださって、翻訳の仮屋さんにも会わせてくださったし、セルヒオさんにもネットで面通ししてくださいました。やはり日本で上演するということは、日本のお客さんにとってリアリティがないとダメだよね、という話になったのですが、脚本家というか、書く人がいないということなので、じゃあ自分のパートは僕が書きます、と申し出て、1年間かけてその作業をずっとやってきました。

──現時点で手応えは感じていらっしゃいますか

成河 もう1年くらい台本を作ってきて、今日稽古場を見ていただいてもわかる通り、今もその作業が続いています。野心としては、成河という登場人物がしゃべる極めて現代的なしゃべり言葉と、仮屋さんが作ってくださった極めて文学的な書き言葉と、そして僕とセルヒオが電話するシーンは英語でやろうと思っているんですけど、そこもオートフィクションを取り入れたかったので、本当に僕がセルヒオと会話をするとしたら、英語が第一言語ではない人間同士が一生懸命英語でしゃべることになりますから、そのリアリティを持ってきたらどうだろうか、と思って作っているところです。さっき藤田くんが「日本語の豊かさ」という話をしてくれましたが、日本語はものすごく複雑で、表現するためにはいろんな切り口で成立できるんだよ、という日本語の表現のデパートみたいなことが盛り込めるのが、日本で上演することの強みにもなり得るなと感じています。それをお客さんがどう喜んでくださるのかは、実際に上演してみないとわからないけれども、決して短期間でできる作業ではなくて、いろんな人の協力を得ながら1年かけてようやく形になりつつあって、今もなお手探りでやっているという感じです。

藤田 だから、初日が明ける1ヶ月前に稽古が始まったという感覚があまりなくて。

成河 ない!

藤田 ずっとこのまま創作し続けたい、と思ってしまいます(笑)。1年前に成河さんやカンパニーの皆さんとこの作品に取り組み始めました。プロデューサー、作家、出演者、演出家とそれぞれ立場が違うわけですが、互いを受け入れ、どうやったら物語を日本語で紡ぎ上げて上演することができるのか、ということを1年かけてやってきて、すごく心地よく今日に至っています。この芝居は、観客席と舞台上の境界線があたかもないかのように自然と始まるのですが、この企画も自然と始まり、続いているこの時間に尊さを感じます。ものを作るときはこういう感覚を大事にしなければいけないんじゃないかと思っていて、日常の中、日々の延長線上に芝居がある、と意識しながら稽古しています。あらすじは非常にシンプルで、セルヒオさんが何をこのオートフィクションの中に込めようとしたのかという大きいテーマの輪郭、作家性を、カンパニーみんなでしっかりとらえながら、稽古を進めることが出来ていると思います。

──セルヒオさんが書こうとしたものというのは、日本の演劇として再構築しても伝わるものであると、セルヒオさんご自身も認識されているのでしょうか

藤田 セルヒオさんとお話しさせていただき、本当に自由に上演して構わない、と言ってくださっています。その言葉の裏側には「自由にやっても、作劇に込めた思いが芯にある」という自信も感じました。だから日本が背景として平然と出てきても、それを受け入れるだけの豊かさをこの戯曲がすでに持っていると考えます。

成河 セルヒオさんからは「あなたたちがやる場合は、国を日本などに変更しても構いません。観客が自分たちの身近な文化で感じることが、この作品では重要です。現地のリアルな環境に置き換えるのは当然です」という言葉をいただきました。僕はこの言葉で日本でも上演をできる、と確信しました。

──今回が3回目のタッグとなる同い年のお2人ですが、改めて今お互いのことをどんな存在として認識されていますか

成河 この作品を一緒にやるなら、これを喜んでくれたり、間違いも指摘してくれたりする間柄の藤田さんじゃないと作れないな、と思いました。

藤田 成河さんのことは、現在の世界に対して非常に鋭い切り口や見方を常に持っていらっしゃる方だなと思っています。この作品は、元はスペイン語で書かれたものですが、英語に翻訳された上演台本もあります。そして仮屋さんがスペイン語から日本語に翻訳した言葉があります。成河さんパートはそれらを比較した上で言葉を選ばれているので、なぜ成河さんはこの言葉を選んだのだろう?と探っていけることがすごく幸せだなと思いますし、楽しいです。作品の中で「ベッドの際」という意味の言葉が出てくるのですが、日本語だと「際」だけじゃなくて「端」とか「隅」とか、いろいろな言い換えができますよね。

成河 英語だと「edge of the bed」、スペイン語だと「borde」つまり英語でいうところの「border」という言葉が使われています。

藤田 芝居で「際」「端」「隅」とそれぞれでやったらどうなるのか。、全く違うんです。言葉をどう選ぶのか、どう身体に落とし込んでいくのかということを繊細に意識しながら、丁寧に一緒に創作できる方だな、と成河さんを尊敬しています。「borde」という、成河さんが台本から発見してくださった言葉、つまりどこに境界線があるのか、自分自身すら疑うというか。セルヒオさん自身が自分の言葉によって今この世界に何を語れているのか、ということを問い続けている方なんですよ。あらゆる解釈を用いながら豊かな稽古場を一緒に作れたように、想像すれば想像するほど物語そして演劇というものはこんなに面白いんだという大いなる希望を、お客様には強く感じていただけるんじゃないかな、と思っています。

──台本の中で、芸術の役割についてセルヒオがスピーチする場面があります

成河 そこのセリフがめちゃくちゃ面白いですよね。その直前に芸術の無意味さを語っておきながら、スピーチでは芸術の役割について語るという、アンビバレンスが彼にあるんです。だからやっぱり物語はすごく大事で、例えば戦争をしている二つの国があって、両方の立場になってそれぞれ考えてみたら、「いや、これはもう何も言えない」と、一回行き止まりになるんですよ。そんなに人間って、生やさしいものじゃないんですよね。そういうものを、みんなときちんと共有できるのが劇場なんです。僕は押し付けられるということがとにかく苦痛だったので、「どっちかじゃなきゃいけない、なんてことはない」と思えた時にすごく生きやすくなった感覚があって、演劇に救われたと思っています。

藤田 このスピーチは演劇を作る現場、もしくは演劇そのものの在り方、上演のことを話しているのだと思います。もちろん自分自身の中に確固たるものはありますが、それに対して「こんな意見もあります」と皆さんが対話し意見してくださるこの作品の稽古場には、実に充実した空気があります。この雰囲気はまさに僕が今考える’芸術’に近いです。一つのものに対して「こうやって作れますよね」とみんなで想像していくという、ものが作られていく過程の豊かさこそが芸術なんじゃないかな、と思っています。

成河 他者が他者としてそこにいるということですね。まさしくこの作品のテーマですけど。

藤田 自分自身の中にも他者はいるし、「こんな考えがあるんだ」ということを発見し続けていって、常に「borde」というものを意識しながら探し続けていく。もしかしたらそうやって自己批評、自己否定を繰り返していくことが、ものを創る、ということなんじゃないかなと思います。

取材・文/久田絢子
撮影/岡 千里