『cocoon』:マームとジプシー藤田貴大インタビュー

白いスカートをふわりとひる返しながら繰り広げられる、まだ幼い甘やかなおしゃべり、想像の繭(cocoon)が紡ぐ儚い世界、上空から聞こえてくる飛行機の轟音。今となんら変わらない女の子たちが次第に、戦争に引き入れられてゆく……。第二次世界大戦中、沖縄戦に動員された「ひめゆり学徒隊」から着想を得て描かれた舞台『cocoon』(原作は今日マチ子の同名漫画)が、再演ツアーで全国を巡っている。何度も同じシーンを繰り返すリフレイン、走り続ける少女たちの切実な姿――鮮烈な印象を与えた話題作へ再度挑むことについて、藤田貴大(作・演出)に現在地を聞いた。

 

――このオンラインインタビューは『cocoon』9都市ツアーの後半、マームとジプシーが「那覇文化芸術劇場なはーと」公演のために沖縄に入ったタイミングで行っています。沖縄の後は9月、埼玉、北海道公演へと続きます。まずは現在の思い、ツアーの手応えから伺えますか?

今回のツアーはスタート地点である東京公演が、初日と2日目しか上演できず、不安な走り出しになってしまったんですよね。

 

――公演関係者に新型コロナ感染症の陽性反応が確認され、東京公演は残念ながら残りの日程が全て中止になってしまいました……。そもそも最初の予定では、2020年にツアーの予定でしたし。

コロナ禍前の当たり前が当たり前ではなくなってしまって、公演を成立させるのも困難な時期にツアーに出てしまって。だからせっかくなら、この夏に、この作品をやる理由、各土地で上演する理由を見つけたい、そんなことを意識して回っている気がします。ここまで長野、京都、愛知、福岡に行きましたが、探せばどの土地にも戦争の記憶があり、「この場所にはどんな空襲があったのか」など、今まで考えてもなかったような事柄に思いを巡らせています。余談ですが、長野公演で行った信州上田は蚕糸(さんし)業で栄えた街で、劇場名「サントミューゼ」は「サント=蚕都」の意味だとか。「cocoon(繭)」ですよね(笑)。そんなふうに、多少理屈っぽく作品との繋がりを見つけるのも今回はいいんじゃないかなと考えています。

舞台写真:岡本尚文

――2013年の初演、2015年の再演を経て3度目となる今回は、これまでよりも広い空間での上演です。

ありがたいことにこの作品は、いろいろな劇場から再演の要望をいただいていました。でも自分の中では、2015年のバージョンを更新できないならやる意味がないと思っていて。再演を決めたポイントは、大きな劇場での上演が実現したことです。コンパクトな空間の利点を生かして演出した“臨場感”で作品が持つ主観だけに巻き込んでいくのではなく、観客の一人ひとりが持つ戦争観と、僕らが今表現している戦争が、俯瞰的に交錯しないだろうかと考えた。近さによる迫力だけで沖縄が持つ切実さを訴えたい作品ではないんです。
もう一つの更新点は、「どこにでも起こりうる戦争」にスポットを当てたこれまでと違って、「沖縄戦であること」を意識して構成し直したこと。原作には細かく描かれていない歴史的な事実にフォーカスして、今回は冷静に、時系列も意識してテキストを書き直しました。初演以来マームとジプシーは、公演の予定がなくても何度も沖縄に足を運んできました。その蓄積が今年上演した『Light house』(昨年那覇市に開館した「那覇文化芸術劇場なはーと」のこけら落としシリーズでマームとジプシーとの共同製作作品)という作品にもなったわけですが、最初から自分に言い聞かせていた「沖縄戦だけで沖縄を語っちゃいけない」という気持ちも大事にしつつ、実際に何度も沖縄を訪れて身体感覚で掴んだ“沖縄戦”を、劇場空間に配置したいと考えました。

 

――沖縄と関わり続け、蓄積してきた実感を軸に再構成しつつ、ブレヒトの異化効果ではないけれど、観客を「感情」で巻き取っていかない、どこか冷静さを持った演出に留意する……戦争というモチーフを描くときに大事なポイントかもしれませんね。藤田さんの世代が戦争を描くことについても、改めて教えてください。

初演、再演の時は、戦争を描く意味について「戦争も沖縄も知らない僕たちが、手を伸ばし続けること、この人たちの痛みを未来につなげるために重要なんじゃないか」と答えていました。でも最近考えるのは、僕らは果たして「戦争を知らない世代と言えるのかな?」ということ。今日だって僕たちは、ウクライナでどんなひどい攻撃や被害があったかを知っているし、さかのぼれば、9.11だってありましたよね。この20年で暴力や戦争に対するフェーズが、どんどん変化しているわけです。第二次世界大戦や沖縄戦について調べていると、1945年にいきなり戦争が始まったわけではなく、何十年かかけて段々と開戦のムードが高まっていったことが明らかに分かります。ひめゆり学徒隊のことを考えても、彼女たちが生まれた時から日本は既に軍国主義国家だった。例えば平和祈念資料館で毎年見る資料に関しても、以前は過去の記録だと感じていたトピックが、今日の新聞で読んだ戦争の話と重なったりする。この既視感、危機感は年々ハードなものになっていくし、もう自分たちは「戦後を生きている」とは言えないと思っています。

 

――確かに国内外の風景を眺めると、初演時よりも戦前のような緊迫感を感じる機会が増えました。

その上で、ただ「戦争は良くない、平和な世界を」と声を上げることだけをしたいのなら、演劇という虚構の世界でそれを扱うというよりは、もっとリアリティのある行動ができると思うんです。でも敢えて演劇を通して戦争を描くというのは、もう少し身体感覚が伴った作業なんだと思うんですよね。キャストもスタッフも観客も僕も、劇場の中で身体の全感覚を研ぎ澄ませて、表現の中で扱っているテーマと対峙する。『cocoon』のことを「戦争もの」とはあまり思っていない部分もあって、沖縄へ足を運ぶうちに芽生えた自分の中にある実感とか体感、または距離感を、淡々と演劇というボードの上に置いていった結果でもあるんです。一方的にただ平和を訴えたり、観客に「沖縄戦とはこういう戦争でした」という知識を与えたいのではなく、あの凄惨な季節から今日までの沖縄の苦悩や葛藤について、僕たちなりに考え続けていることを空間性と身体感覚を持って提示する。劇作というのは、小説のように紙の上の文字で完結するものではなくて、空間や身体とかいう曖昧な部分、もっと言えば音や声、沈黙や余白へ向けてのアプローチだと思うから。マームとジプシーはこの15年間、沖縄もそうですけど、福島とも深く関わって、日本各地、いろいろな土地に出会っていくことをずっと続けていて、その中で“終わった土地”なんてないんです。これは自分たちの活動の特色、面白さだと思っているんですが。人と出会って、縁がつながり広がって、点が面となる。マームとジプシーはこういう流れを大切にしながら、今後も継続していくんだと思います。自分たちの中で終わらない話がずっと重なっていって、そこに自然と舞台をつくる衝動が生まれるんです。

取材・文/川添史子