ゆうめい『ハートランド』│池田亮(劇作家、演出家)インタビュー

新たなアプローチで描く「存在」の多面性
そこにいない人、劇場外の出来事に目を凝らして

両親の出会いと別れ、娘の誕生を機に遡る両家のルーツ、画家であった祖父が遺したもの…。実の父が本人役として舞台に立つという圧倒的当人性もさることながら、過去の体験を逡巡しながら当時を追憶するように紡ぐこれまでのドキュメンタリー的劇作は、確かにゆうめいというカンパニーと劇作家・池田亮の個性を強く印象付けるものであった。
『姿』、『娘』、『あかあか』と、三作に渡って事実に基づく家族の歩みを描いてきた池田であるが、来る最新作『ハートランド』は、それらの作品群とは全くはなれたところから端を発したと言う。

物語の舞台は、様々な境遇の人々が漂着する、ある地方の駆け込み寺的コミューン。そこに出入りする6名が過ごした、確かに在ったある一夜の話だ。

舞台で描かれるのは、舞台上に在るものだけではない。その場にはいない人、ここではない場所、そこで同時に起こっていること。ドキュメンタリーからフィクションへ、池田のその眼差しは、舞台上から客席を通じてやがて劇の外へと続いていく。新たなアプローチによって紡がれるのは不確かな存在の存在性、その多面性とでもいえようか。
そんな新たなフェーズに突入したゆうめい。6名のキャストの多様な魅力、配役の経緯、執筆の構想、これまでの創作を経て感じた違和と葛藤、新たな発見を通じて描く展望。稽古初日を間近に控えた池田亮に本作への意気込みを聞いた。

――約1年ぶりの新作『ハートランド』。様々なバックグラウンドを抱えた人々が集う「駆け込み寺」のような場所が物語の舞台となっています。池田さんご自身やご家族に起きた実話を元にするといったこれまでのドキュメンタリー的手法からは一歩脱したようなフィクション性に新たなフェーズを感じたのですが、こういったコミュニティを題材にするに至った経緯や執筆の構想からお聞かせいただけますか?

フィクションと言いつつも、やはり自分の体験したことがベースにはなっていると思います。物語に書いてあるようなことがダイレクトにあったわけではないのですが、僕自身が駆け込み寺のような場所に少しの間滞在していたこともあり、その場で体験したいくつかの出来事から話を広げようと思ったのが最初のきっかけでした。もう一つは、僕が1992年生まれで、ネット文化に大いに触れながらオンライン上で人と知り合うことを経験しながら育った世代であること。そういったことも本作の構想の一つです。劇中にはオンラインゲームやメタバースの世界も出てくるのですが、人間関係が現実の関係性だけでなく、ネット上の関係へ徐々に移行したり、あるいは並行していくような時代に経験したことを思い出しながら執筆していました。

――過去作品でもVRやアプリが劇中に登場することは度々ありましたよね。ネットやデジタルの要素を劇作に盛り込む上で池田さんが感じていること、そこから抽出して本作で描きたい景色とはどんなものなのでしょう?

ゆうめいで上演台本を書く以前にインターネット上に匿名で小説を発表してボコボコに叩かれる、みたいなことがあったんですけど、そこに改めて立ち返った時に、現実で演劇をつくっている自分と匿名で小説を投稿していた時の自分が全く違う存在である、ということを感じて…。そういった並行して存在しているいくつかの世界をモチーフに物語を描きたいと思ったんですよね。

――ゆうめい作品における新感覚さを存分に感じながらも、現実のコミュニティとネット上のコミュニティの違いやある種の接続はやはりゆうめいの持ち味の一つで、今作でも鮮やかに描かれていると感じました

劇中ではポケモンGOやメタバースも出てくるのですが、そういった場だからこそようやく自分の言葉を発することができる人もいる、ということをすごく感じていて…。例えばSNS上の限られた文字数の中で自分の中にある言葉を言語化できる人達は自らを発信できるけれど、そこで言語化ができない人々はどこで、どんな風に、どんな話をしているのか、ということを度々考えるんです。それが、オンラインゲームの最中であったり、それこそメタバース上のアバターを使って変声機で声を変えた時であるという時に、自分の姿かたちを変えられることが関係しているのだろうなと思ったり。SFだと思っていたことが現実になりつつあることを感じると同時に、人の心や言葉が現実じゃないところにも存在していることについてもいろいろ考えました。そういう意味では、現実世界の駆け込み寺とメタバース上の駆け込み寺があって、本作ではその二つの軸で物語を進行していけたらと思っています。

――確かに、誰もが饒舌に自分の思いや考えを発信できるわけではない中で、オンラインの世界が駆け込み寺や居場所になることも大いにあり得ることですよね?

人の存在する場所は一つではない、という話にも少し通じるのですが、劇中でやや敬遠されるものとして扱われているある猫のフィギュアが、実はある特定の世界ではものすごく高い価値が生じていた、という描写があります。と言うのも、少し前に、僕がごく個人的な趣味の延長として作ったハンドメイドの指輪がひょんなことから大バズりしてカプセルトイ化する、という出来事がありまして…(笑)。さほど価値はないだろうけれど、自分とごく一部の人に刺さればいいと思って作ったものが大勢の人から注目され、思わぬ価値が生じた時に正直少し「怖い」と感じたんですよね。実際、自分の不幸な体験をお金に換えている人とかもいるので、世の中において何が評価されるのか、価値がどこにいつ生じるのかってつくづくわからないものだと痛感したというか…。そういった経験や体感も今作には結びついていて、「お金にする」という行為が持たれなかったものに後々付随してしまう価値についても描けたらと思っています。

――あらすじに添えられた「どこかにいる、いた、いない。欲求と不確かな存在を描く一夜のフィクション」というコピーの“不確かな”というのもそういった意味合いにかかっているのでしょうか?

そうですね。同時に、自分がこれまでやってきた事実を元にした演劇ってすでに起きてしまったことを演劇化しているので、必然的に作る最中に全部が過去になってしまう、ということも思っていて…。描いている時にはその過去はもう終わっていて、さらにそれを伝える時点では、演劇というライブとして伝えていたとしても、起きた出来事に立ち会った人々にとってはもはや「時すでに遅し」かもしれない。そんなことをこれまでの創作を経てすごく感じたんですよね。過去作には実在する父親として本人が出演してくれていたので、「結局この話はどうなったの?」となった時に、舞台上に父親の存在があることをある種の答えとしてお客さんに提示していたのですが、いざフィクションを描こうという時に違和感みたいなものを感じるようになったというか…。そこにいない人や自分以外の人々を描く時に果たしてどうアプローチすればいいんだろうと思って、本作では「今まさに起こっている」ということをより強調したいと考えたんです。

――当人や当事者が舞台上に立つ劇作からそこにいない人を描くという劇作への変化。「いる、いた、いない」という言葉は、まさに存在のバリエーションを思わせるようなものだと感じます

存在のバリエーションという意味では、劇中の登場人物のみに注目するというよりは、劇場の外にいる人々にやがて意識がいくような演劇をつくってみたい、という展望が根幹に流れていると思います。 “不確かなもの”という言葉はそこにも向いているというか…。あと、劇中にも書いたのですが、例えば映画を見ていて、飽きてきちゃったりした時にスマホを使う人とかがたまにいるじゃないですか。作品よりも現実の方が気になってしまう、現実の自分を優先する瞬間というか…。そこにも今作で自分が持っていきたい情景があると感じています。劇世界に没入しつつ、その最中も劇の外には同時に流れている他の時間があるということに想像が膨らむような作品にできたら、と。

――目に見える形で存在しない登場人物の描写が多かったことも印象的でした。これまでは当事者性と言いますか、当人が当人やごく近しい人の話をする、といった手法が多くあったと思うのですが、舞台上に姿は出てこない人について他者が語る、というのもゆうめい作では新しい側面なのではないかと感じました

そうですね。そこも「舞台の外の人を想像したい」という思いからきていることです。というのも、俳優が役を演じている時にふと、「でも、あなたは本人じゃないよね」という気持ちになる瞬間って少なからずあると思っていて…。父親に本人役として出演してもらった時ですら、俳優としてのスキルが上がるにつれて本当の父親の姿から遠ざかっていくようなことを感じたので。そういったことを受けて、なるべく脚色されてない状態で実際の景色を想像してもらうにはどうすればいいのかなと思って、舞台上に存在しない人に意識を飛ばすという方法を選びました。その場にいない人のことを他の人が好き勝手話せる、といったシーンも最近加筆したのですが、それも劇場で起きていることとほぼ同じことだな、と思ったりするんです。そういった描写をお客さんに客観的に見てもらうことが叶ったら、目の前の景色だけで人や物事を定義づけるのではない、あくまで全体の一部として見つめることができるのではないか。「この人はこの場だからこういうことが言えるのだろうな」、「実際は違うかもしれないな」というふうに意識の広がりが生まれるのではないか。そんな狙いもあります。

――そういった挑戦や展望を踏まえると、舞台に登場する人物のキャラクターを造形するにあたっても、これまでにない工夫や変化を凝らされたのではないかと感じたのですが…

今までは結構当て書きのようなものをしていたのですが、今回は極力せずにいこうと意識しました。これまでの作品では、事実を元に自分目線で描きつつ、当事者の方にも本を見せて改稿したり意見をもらったりしていたのですが、そうなってくると、どうしても自分と当事者の目線だけで作品が固まってしまうんですよね。これは普段の生活でも起こり得ることだと思うのですが、当事者を知る他者から「あの人はあんなに優しい人じゃないよ」みたいなことを後々聞いたりすることもあって…。そういった体験も大きく影響していると思います。様々な理由があり、同時多発的にいろんなことが起こっているのに、一つの理由や側面だけで物語やキャラクターを定義づけていいのだろうか。そう思ったことが、今回のアクの強い、何を考えているかわからないようなキャラクターたちに反映されたのではないかと思います。

――当事者性、当人性、ドキュメントといったところから飛び出して、フィクションのキャラクターを構想する作業ってゆうめいのこれまでの劇作とは大きくアプローチが違うものだと感じるのですが、その上で新たな発見などはありましたか?

新発見や再確認はすごくありましたね。ゆうめい作品以外でアニメやドラマの脚本を書く時にもキャラクターを中心に物語を描く、ということはやってきたのですが、なるべく人に好かれる、応援されようとするキャラクター造形をしている自分に改めて気づくような感覚がありました。でも、実際に生きていると、全員が全員応援したいと思える人間ではなかったりするし、人一人をそんなに簡単に分かれないとも思っていて…。例えば、登場人物が嘘をつくというシーンを描く時に、意図的に何かしらの理由を以ってセリフを作っていくようなやり方で書くことがあると思うのですが、今作では書いている自分も明確な理由が分からない、「登場人物がなんとなくついてしまった嘘」を表現としてどんどん加えていって、「なんでこの嘘をついたのだろう」ということを後々検証するようなやり方で書いてみたんです。これも初めての試みでした。

――ここまでお話を伺って、本作の執筆は、物語や人物を意図的に動かすということを遠ざけながらのクリエーションだったのではないかと感じました。池田さんが本作においてそこにこだわりを据えたのにはどんな理由があったのでしょう?

登場人物が意図的に嘘をつくように、自分にもまたその側面があると感じたことが大きかったです。自分に起きた実話を作品として伝える時に、隠すことはちゃんと隠していたようなところがあったと思うんですよね。お客さんに見てもらうことを意識して、ちょっと良く見せようと書いてしまったところもあるというか…。もちろん、様々な事情からそれ相応に隠したり嘘をつかないと世に出せない、ということもあったのですが。

――モデルとなる実在人物がいたり、当事者が関わる作品を多く手掛けていらっしゃいますから、どうしてもそのまま出せないことがあると想像できますが、そこがある種の葛藤になっていたと

具体的に言うと、こういう自分の面を出すのはさすがにお客さんが不快だろうなと思ったところや、母がこんなセリフを言ったらさすがに救いようがないよな、ということを調整したり、人物を大事にするために真実にセーブをかけたところがあって…。そもそも2、30年ぐらいの時間を90分とかでキュッと見せるということも含めて「いいところだけ見せているんじゃないか」という気持ちになったりもしたんですよね。

――そういった葛藤を乗り越える、あるいは本作に活かす上でヒントとなった出来事などは何かあったのでしょうか?

執筆の折に何度も読み返した本があって、キャストの高野ゆらこさんに教えていただいた、小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』という本にものすごく衝撃を受けて…。読後1週間は引きずってしまったのですが、結果的に3周くらい読み込みました。自分が当事者としての言葉を持ちつつも、やはり演出されたものを演劇として作り上げてしまっている、という部分にもすごくリンクしましたし、同時に、誰かの被害に対して「私とあなたは同じですね」というようなことを簡単には言えなくなったんです。これまでの創作やその中でどことなく感じていた違和感に気付かされるような心持ちになって…。今作はもちろん、自分の創作を改めて見つめ直す契機になった、特別な一冊でした。

――そういったことも含めて改めて考えると、今作は結構な覚悟作でもありますよね。今までのやり方をガバッと外して違うアプローチでいく、見方を改める、あえて今まで入れていなかった自分の側面を持ち出すという…

そうですね。とくに鈴鹿通儀さん演じる岡役には完全に自分を投じているというか、露悪とまではいかなくとも自分を痛めつけようと思って描いている節もありました。そんな風に「いいように見られようとする自分」を今作のキャラクターたちに託している部分があると思います。これまでとは違う見方や角度から自分を描く、というのも一つの挑戦だと感じています。

――ゆうめい作品に出演歴を持つ頼もしい俳優と、相島一之さんをはじめとするキャリア豊かな初参加組の俳優が織りなす座組。今回は過去作に比べてキャストの人数も少なく、少数精鋭といったイメージもありますが、キャスティングの経緯についてもお聞かせください

相島一之さんは映像でずっと拝見していた印象深い方でしたので、オファーを受けてくださった時はとても嬉しかったです。昨年、『東京は24時』というワンカットの生ドラマ企画の第二夜に脚本・演出として参加したのですが、相島さんはアガリスクエンターテイメントの冨坂友さんが手掛けた第一夜の作品に出演されていて、僕も映像で拝見させてもらったんです。俳優としてのバックグラウンドと実人生としてのバックグラウンドが滲むような圧倒的な存在感といいますか、ご自身の様々な体験を経て舞台に立っていらっしゃる相島さんの姿が今回の須田役にすごく合いそうだと感じ、オファーをさせていただきました。

――ミュージカル『ドリームガールズ』に出演されていたsaraさんの参加も話題を呼んでいます

saraさんは文学座に所属されていて、かつミュージカルでも活躍されている俳優さんで、ゆうめいが過去にお声かけしてきた方々とはキャリアやカラーがまた少し違うのでこれまでにない異色の反応を生んでくださるのではないか、と楽しみです。歌声の素晴らしさはもちろん、舞台上でどんどん自分を別のものに更新できるような強さに惹かれて…。saraさん演じるユアンは、コミュニティ内の人たちには通用しないようなツールを持ち込んでくる人物として描こうと思っていて、人間が固まったコミュニティのみでなく、別にところにも存在ができる、ということを描く上でキーパーソンになるのですが、そんな人物造形にsaraさんの強さがマッチするのではないかと感じました。

――池田さん自身を投影したという岡役を演じられる鈴鹿通儀さんとはスペースノットブランクの公演でご一緒されていましたね

まさにその公演中に話の流れで「ゆうめい出たいです」と言っていただいたのですが、その時の表情がすごく印象的で、直感的に「岡役は鈴鹿さんだ」と思ってしまったんですよね。優しく、笑顔が印象的な方なのですが、自分にもリンクする人間の持つ狡猾さやどろ臭さを豊かに体現してくれるのではないか、という期待を感じる表情だったんですよ(笑)。身体性も印象的で、フィクションとリアルの往来に果敢に挑んでくれそうなところにも魅力を感じています。

――ゆうめい初参加となる3名に加えて、メンバーの田中祐希さんをはじめ高野ゆらこさん、児玉磨利さんというお馴染みの俳優さんが新たに挑む役柄も楽しみです。この3名はこれまであてがきのようなアプローチをしてきた方々だとも思うのですが…

配役は迷いなく、割とすぐに決まりました。ただ、極力あて書きしないと決めていたのですが、書けば書くほど似てきてしまうというか、3人の魅力を知っている分「こっちの方が面白いかも」と寄ってしまう部分は少なからずありましたね。もちろん、配役よりもキャラクターが先行はしていたのですが、本が進むにつれて、どんどんご本人に近付くというか、キャラクター性と本人の個性が混ざっていくような成り立ちになりました。でも、そこも新たな魅力へと変換してくださる方々なので、6名全員が集まる稽古が今からとても楽しみです。

――特定のコミュニティや景色を描きながらも、見終わった時には社会を思わずにいられない体感になることがゆうめいの作品の魅力の一つだと感じているのですが、今回「駆け込み寺」という、人によっては居場所や拠り所になりうる場所を題材にする上で池田さんが感じたことを改めてお聞かせください

ここで明確に伝えておきたいのは、実際の駆け込み寺はこんな感じじゃないということです(笑)。『ハートランド』は、駆け込み寺が崩壊した後の話なので、この状態がそういったコミューンの印象の全てだとは決して思わないでもらいたい、という思いが第一にあります。それを前提にした上で、僕自身が個人的な体験を通して感じたのは、人々が心の奥底で思っていたことが溢れている状態がコミューンが崩壊する前兆である、ということでした。「現実でこうはなってもらいたくない」と願う一方で、駆け込み寺的なコミュニティが崩壊したところで人は終わらないというか、その後の人生は別にちゃんと続いていくということも感じています。現実世界にしても、メタバースにしても居場所はいくらでもあるということまでを提示できる作品にしたいと思っています。重ね重ねですが、これはフィクションであって、本当にいい駆け込み寺もこの世界にはたくさん存在しているので、必要に迫られた時にはどんどん駆け込んでもらえたらと個人的には思っています。

取材・文/丘田ミイ子