笑顔にパッケージされた涙にこの手が届いたなら
おそらく人間は往々にして「悲しくもないのに泣くこと」よりも、「楽しくもないのに笑うこと」の方が遥かに多い。そして、泣くタイミングが周囲と違うことよりも、笑うタイミングが周囲と違うことの方が他者から受け入れられにくい傾向がある。自分には思いがけないところで他者が泣いたとしても、「何か思うところがあったのかも」などとその悲しみに寄り添えるのに対して、他者が思いがけないところで笑うと、「なんでそこで笑うの?」という疑念がまず浮かぶ。状況によってはそのズレに気分を害し、「不謹慎だ」と眉をひそめさえする。そしてこれは演劇を観る観客間でもしばしば見受けられる事象でもある。誰しも多寡はあれども「楽しくもないのに笑う」という身に覚えを持っているにもかかわらず、「泣き」よりも「笑い」に対しての方が受ける側の了見が狭くなってしまうのは、その真意がより見えづらいからだろうか。
無論、私自身もそんな他者を訝しがったり、あるいは自分の言動を笑われたことによってはっきり傷ついてしまった経験もある。だけど、この世界には誰かに対する悪意としてではなく、泣きたい時にこそかろうじで笑うことで目の前の日々を生き延びようとする切実さも確かにある。私にもそういう時がある。今、隣にいる人の笑顔もそうかもしれない。
東京にこにこちゃん『ゲラゲラのゲラによろしく』はそんな主人公、かつてクラスきっての“ゲラ”であった笑井上戸(てっぺい右利き)が本当の笑顔と涙を取り戻すまでの物語である。
選択肢にない選択に桜色の光が注いだ『どッきん☆どッきん☆メモリアルパレード』、世界的悲恋にあったかもしれない賑やかな朝を授けた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・バルコニー!!』。悲劇の型を破り、そしてまた喜劇の型をも勇んで破る純度200%のドラマたち。そんな過去の作品群を経て新たに生まれた『ゲラゲラのゲラによろしく』は、東京にこにこちゃんの真髄である喜劇や笑いへの類を見ないこだわりとその演劇観が存分に詰まった、いわば本領と言っていい一作であった。何を隠そう、タイトルに何度も銘打ってあるように、本作の題材は“ゲラ”=笑いである。
舞台はとある小学校の放課後の教室、転校生としてやってきた木下権助(江原パジャマ)をクラスメイトの山口優笑(木乃江祐希)、智下千花(三森麻美)、歩歩恵美(高畑遊)が囲み、ある力試しに興じていた。それはズバリ、どれくらい面白い話ができるのか。女子たちから権助へのいわばトーク力査定である。その洗礼はバラエティ番組「人志松本のすべらない話」のシステムに倣ってサイコロを振って進行されるのだが、サイコロには権助の名前しかないため延々と喋らされる羽目になり、その様子に客席から最初の大笑いが起こる。ディベートクラブに所属する利発な千花は権助の話芸を厳しく批評するが、その名の通り“ゲラ”の上戸(てっぺい右利き)があまりに笑うことによって権助は命拾いをする。「僕は権助くん面白いと思うよ!」と根っから明るく言う上戸は周囲に「なんだって笑いすぎなんだよ」と言われながらもクラスのムードメーカー的存在であり、みんなに愛され、そしてみんなを愛する天真爛漫な少年なのであった。上戸を演じるてっぺい右利きのチャーミングさ、イノセントの光る一挙手一投足によって、観客も自ずと彼のことを好きになってしまう。冒頭の掴みから登場人物たちの愛おしさをしっかりと握らせるこの温かくスムースな手つきは、自身の生むキャラクターに惜しみない愛を注ぐ劇作家・萩田頌豊与の、それこそ“愛し、愛される力”が魅せる技と言ってもいいだろう。もちろん、東京にこにこちゃんの演劇に欠かせないハイテンポなナンセンスギャグも顕在。女子たちの背後にはなぜか足を机に繋がれ、教室で囚われの身となっている男子・佐々木寿一(四柳智惟)がいるし、下校を知らせにやってきた教師・伊藤武蔵(尾形悟)はクラスをまとめているのか乱しているのか分からない力技でわずかな時間にも教室ににこにこ旋風を巻き起こす。安定の爆発力と存在感で「笑い」という劇の主成分を担う俳優陣が今回もまた素晴らしい。
天真爛漫な上戸であるが、その家庭環境は複雑な状態にあった。下校時を見計らって通学路で上戸を待ち伏せする父・実(近藤強)はかつてパリで活動していたが、どうやら今は食えない絵描きであるようで、上戸はそんな実の別宅に母親に内緒でしばしば食べ物を運んでいる。上戸と同じ放送クラブに所属する優笑は、そんな親子の様子を、上戸自身のことを一際気にかけている。転校生の権助同様、彼女にとってもまた上戸の笑いは救いであるようで、放送をする傍らに上戸がいることを心強く思っていたのである。
権助がどのクラブに入るのかという話題で盛り上がる教室では、ディベート部に誘う千花と放送クラブに入りたい権助を巡り、ある賭けが始まろうとしていた。来週の放送でゲスト出演する権助が笑いを取れたら千花は放送クラブに、笑いがとれなければ権助含む全員がディベートクラブに入るという荒唐無稽な賭けである。決戦の放送日にも上戸はいつもの笑い声によって権助を助けるのだが、この日を最後にそんな上戸の“ゲラ”に変化が起きる。その理由は。父との間に起きたある出来事であった。
「笑いは救いだ」
「笑顔の奴に人が集まるんだ」
「笑ってるお前が一番だ」
父が繰り返し上戸にかけたそんな言葉たちはいつしか上戸にとって救いどころか呪いのような手触りで影を落としていく。時が経ち、子どもたちは大人になるも小学校で築いた友情関係は続くのだが、上戸の変貌はそんな友人との関係にもディスコミュニケーションを生じさせていく。
大切な人が思いのままに笑えなくなったとき、それが思いのままに泣けなくなったことであるということに、その間の外れた笑いの正体が“笑顔にパッケージされた涙”であるかもしれないということに気づける人はどのくらいいるだろうか。あるいはそのことには気づけずとも、変わりゆく友を、自分の理解の範疇を越えた他者を切り捨てず、体に追いつかないその心に手を伸ばそうとすることが果たして私にはどれくらいできるだろうか。そんな「笑い」の複雑さに光を当てた物語は、そのまま「喜劇」やまたは「悲劇」の在り方への問いかけにも置換ができる。
「悲しくもないのに泣くこと」よりも、「楽しくもないのに笑うこと」の方が遥かに多い私たちである。そんな私たちが観客になるときにはやはり、悲劇に心から泣くことよりも、喜劇に心から笑うことの方が難しい。作り手にとってもそれは同じで、観客を泣かせることよりも笑わせる方が難しい。だからこそ私は、悲劇的なシーンであるにも関わらず笑ってしまう、喜劇的な演出であろうとも泣いてしまう、いつだってそんなアンビバレントな人間の感情を肯定するような東京にこにこちゃんの演劇に強く魅了される。悲しみや虚しさをそのまま物語に回収することでドラマティックにはしたくない。悲劇に消費されるだけの登場人物などいない。そんな執念にも似た信条に圧倒されてしまうのだ。結末の明暗を提示しないことや観客の察しに分岐が委ねられること、そんな示唆に富んだ演劇の素晴らしさももちろんあるだろう。しかしその一方で、それらの型を破り、「されども届かないより届いた方がいい」、「バッドエンドよりもハッピーエンドが良いに決まっているじゃないか」という鼓舞や激励にも似た熱で喜劇も悲劇も諸共抱きしめて、最後の瞬間までひた走る本作のような演劇が少なくとも私には必要で、そしてその直球さはもはや今の演劇の中で新しいとすら思える。その新しさをどこまでも追いかけたいと思う。
先日とある演劇を観に行った時、隣に座った観客が誰も笑わないところで大きく笑った。
その真意は分からない。分かりようがない。だけど、少なくとも私は不快には思わなかった。悲しいことに笑い、楽しいことに泣く。自分すら理由の分からないことで泣いて、笑う。私たちは思ったよりもずっと複雑な笑顔と涙をこの体に、心に持っている。この演劇が私に伝えたことは、そういう人間の感情の果てしなさだった。果てしのないものにそれでもと手をのばしたその先でやっと指先が届く真なる笑顔を、それまで流せなかった数知れぬ涙を受け止め、信じるということだった。だからやっぱり最後にはこう言いたい。「笑いは救いだ」。
文/丘田ミイ子
※高畑遊の「高」は「はしごだか」が正式表記
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【上演記録】
東京にこにこちゃん『ゲラゲラのゲラによろしく』
2022年12月29日(木)~12月30日(金)
東京・下北沢駅前劇場
作・演出:
萩田頌豊与
出演:
てっぺい右利き、木乃江祐希、高畑遊、三森麻美、江原パジャマ、近藤強、四柳智惟、尾形悟
本公演の期間限定特別配信決定!
<配信期間:6月16日(金)~6月23日(金)予定>
視聴はこちら⇒ https://youtu.be/LOzGZJmre2I