柳家三三 インタビュー|「月例 三三独演」

落語家の柳家三三が毎月開催している自主公演「月例 三三独演」の2022年スケジュールが決定した。自ら「勉強会的な側面がある」と語り、やや挑戦的な噺にも挑戦していくこの公演。毎回、どのような心持ちで臨んでいるのだろうか。2021年を振り返りつつ、落語への想いを聞いた。

 

――毎月口演されている「月例 三三独演」は、ライフワークのような独演会になりますね。

真打に昇進する一年くらい前に始めました。最初は100人くらいのホールからスタートして、満員になったら少し大きな会場にステップアップ…という形で何度か会場が変わり、数年前から定員500人のイイノホールでやっています。これ以上だと落語の勉強会の会場としては大きすぎるかなと思うので、このくらいの感じで続けていきたいですね。

 

――勉強会というお言葉が出てきましたが、何か学びのある、学ぼうとする場ということなんでしょうか。

独演会という名がついても、大きく分けると2種類あります。1つはご依頼を受けたもの、もう1つは頼まれてないけど自分で主催するもの。依頼された会でやる噺は、来てくださるお客さまに楽しんでいただける完成品です。でも「月例三三独演」は自分の主催。こちらでやる噺は普段やり慣れたものが少ない。初演じゃなくても、以前しっくりこなかった部分がある噺を練り直して、改めてこの会でどうだろう…つまり勉強会的な性質になりますね。当たり外れももちろんあるけれど、それも含めたドキュメントとして楽しんでもらう感覚かしら。

 

――三三師匠の完成品とは、どういうものなんでしょうか。ご自身の納得感なのか、お客様のリアクションなども含めてなのか…

完成品といっても、あくまでその時点でのということです。完成したと思ったとしても、何年かたてば自分の中の何かが変わっているのか、しっくりこないところが出てくる。前はピッタリだった服がなんか合わないな、という感じに似ているかもしれません。そこで練り直してみるんです。“てにをは”を変えるだけの場合もあれば、展開を変える場合もある。他にもある場面をごっそりカットするとか、以前はなかった場面を加えるとか。でもそれは自分の工夫を見せたいとか、独自の解釈をして誇示したいとかいうわけじゃありません。常に「この落語は面白いな」という状態にしておきたい、ただそれだけです。苦労や工夫の跡なんか見えないほうがいいですよ。そんなこんなでこの独演会は、最近このネタやってないなとか、この噺ってどうすると面白いんだろう?というものを多く選んでいます。

 

――時代というか、世の中も少しずつ変化していっていますし、聴き手の感じ方も変わりますもんね。

落語は演者さえ気分良ければいいのではなく、お客さまの笑ったり満足したりという反応も込みで成立していると思います。昔が舞台となった噺が多いから、現代の人の気持ちや社会の仕組みにそぐわない部分もありますね。そこを今に寄せて変える場合もあれば、気にせず変えない場合もある。演者によってもその考え方には違いがありますよ。

 

――2022年からは会場のみでの開催を予定していますが、今年はコロナ禍で配信での開催になったこともありました。ご自身の手ごたえとしてはいかがでしたか。

お客さまのいない状態でしゃべるから何をしゃべっても何の反応もない。最初はやりにくかったんですけど、回を重ねるうち、カメラの向こうに聴いてくれる人がいると思えるようになりました。おかげで苦もなく楽しくできました。落語って通常、お客さまの反応で微調整しながらしゃべってゆくものなんですよ。無観客の状態だとそれがない分、自分の予定したとおりに近い、ピュアなものができたような印象はあります。良い悪いではなく大きな特徴の一つと言えますね。

――ここ最近で、変化を感じたお噺などはありますか

最近この会で演じた演目の記録を見てたまたま目についたものを2つ。「目黒のさんま」は二ツ目時代のわりと初期に何度か演じたけれどしっくりこなくて以後ほとんど手をつけていないものでした。多くの落語は登場人物同士の会話で物語が進むんですが、この噺はストーリーテラーとして演者自身がちょいちょい顔を出すんです。そこを以前よりかしこまらず、楽しみながらしゃべることができたのが自分でちょっと驚く変化でした。逆に「だくだく」という噺は久しぶりに演じたら、しゃべりながら「以前のほうがよかったかもしれない」なんて…ホントは高座でそんなこと考えてちゃダメなんだけど…感じちゃった。しばらく頻繁にかけて納得いくまで試行錯誤するという選択肢もあるけど、今回はしばらくほったらかしておこうって。

 

――2021年は、10月に師匠である柳家小三治師匠が急逝され、小三治師匠との時間を思い返す機会も多かったかと思いますが、いかがでしょうか。

師匠が亡くなったのは急なことで、覚悟などしていなかったのでとにかく驚きました。けれどもそれでうろたえて、高座にさまざまな影響が出てしまうことは避けたいですよね。もちろん師匠がいてくれたからこそ、多くのことを学び影響を受けてきました。芸のことを細かく話し合うとかいうことではなく、芸人として生きる姿を見せてくれた。そういう指針、支えとした存在がなくなるのは大きなことでしょうね。

 

――三三師匠の年齢も、かつてご自身が落語に憧れた頃の小三治師匠の年齢に近くなっています。そういう年齢になってみて、改めて感じたことはありますか

この頃よく思うのは、今までの自分は、目の前のお客さまにいかに楽しんでもらうかばかりを考えすぎていたなと。落語を好きになった子供の頃の自分が喜ぶような落語をできているのかと自問すると、できていない。小学生の私が納得して、かつ皆さんが楽しんでくれる落語。この先の目標です。

 

――そういう感覚は、年齢を重ねたからこそなのかもしれませんね。

あと、配信をやった影響もあるかも知れないね。さっき言ったように、お客さんがいないととりあえず、自分が立てたプランで進めていくことになるから。

 

――カメラの向こうのお客さんが、かつての落語に憧れた三三師匠だった、という…

それはわからないなぁ。そんなにイマジネーション豊かだったら、もうちょっとマシな落語家になってますよ(笑)。最近はまだまだ制限があるけれど、お客さまを前に噺をできるようになっています。常々感謝はしているつもりでしたけれど、改めてお客さまが会場に足を運んで聴いてくださるありがたさ、大事さを感じています。だからといって付け焼き刃で何か影響を受けたように振る舞うのではなく、いつもと同じように、ね。落語を演じるときに常に一番心がけているのは、古い噺なんだけれど新鮮にということ。自分も含め過去に数多の落語家がしゃべってきた噺は、演者もお客さまもこの先どんなストーリーかを知っています。けれど、登場人物たちはそれを知らないでいてもらいたい。これ案外難しいんですよ。この2年でお客さまのありがたさを新鮮に感じたから、その経験は無駄にならないんじゃないかなあ。

 

――2022年の「月例 三三独演」をたのしみにしていらっしゃる方にお言葉をいただければと思います。

ネタ出ししているものはボリューム感のあるものが多いですね。これを2022年の三三はどんなふうに感じて演じるのかだけでなく、お客さま自身もこんな2年間を経験したあとの変化がある。それが新たな落語の楽しさを感じることになるかもしれません。それにはやはり会場に来ていただくことが一番。ぜひ足をお運びください。

###2021年最後の「月例 三三独演」レポート

取材後、2021年12月に開催された「月例 三三独演」を鑑賞してきた。会場には、間隔を空けてではあるが、多くの観客が集まる。楽しい時間への期待に、どこか浮き立つような雰囲気が場内に漂っていた。

若々しさを感じさせる二ッ目・柳亭市童の落語を経て、三三の一席目の噺は「看板のピン」。若者ばかりで賭け金も少なく、退屈気味となっている賭場に、親分が現れる。親分は、年老いても若者にはまだまだ負けないと胴元を引き受け、賽を振って壺皿を伏せた。だが、そのワキにはピンのサイコロが転がっており、それに気付いた若者らは有り金をピンに賭ける。いざ壺を開ける直前、親分は「看板のピンは仕舞って…」と、ピンのサイコロを懐に片づけ…。三三師匠が得意とする古典落語の名作で、渋い親分の仕草に憧れて真似をする若者のひょうきんな振る舞いと、それに振り回される周囲の人々の困惑が非常にコミカル。前半の親分の仕草があまりに鮮やかで渋いからこそ、後半の若者の奮闘ぶりが笑えて、一席目からさすがの話芸を感じさせられた。

二席目は「言訳座頭」。借金取りも走り回る年の瀬、借金だらけの甚兵衛夫婦は何とか借金の返済を先送りして年を越すために、近所の口達者な男に銭を渡して言い訳を頼む。年末は忙しいからこちらから出向くべきと、男は甚兵衛とともに言い訳行脚に出かけるが…。口下手な甚兵衛の代わりに、男が何とか穏便に言いくるめてくれると思いきや、店先に居座ったり、いっそ殺せとわめいたりと、とんでもない論法ばかり。だが、小気味よい語り口となぜか説得力のある言い回しが絶妙で、聞き入ってしまった。

そして仲入りを挟んで、三席目は「安兵衛道場破り」。越後からはるばる江戸にやってきた中山安兵衛(のちの赤穂浪士・堀部安兵衛)は、地元との縁を感じて馬喰町の宿・越後屋に泊まることに。ところが浅草へ参拝に出掛けた際にスリにあい、一文無しになってしまう。だが越後屋の主人に気に入られた安兵衛は、朝昼晩の酒付きで宿に置いてもらえることに。やがて道場破りで勝ちを収めて金を得ることを思いつき、宿の主人を先導に道場巡りをはじめ…。どこか浮世離れしている安兵衛の雰囲気になんとも言えない愛嬌があり、文無しにもかかわらず酒付きで宿に置く主人の行動も妙に納得感が生まれる。また道場破りという思わぬ儲け話に、安兵衛を煽って連れまわそうとする主人の現金さも人間臭く、絶妙なコンビネーションが心地よい噺だった。

 

落語に入る前の枕では、時事ネタからのもっともらしいウンチクが語られたり、世相をチクリと刺したりと、その内容も多彩。そして、それをほうほうと聞き入っていると、実はウンチクが出鱈目で「落語家の言うことなんて信じちゃいけない」と、ニヤリと実にいい笑顔を見せてくる。してやられてしまったこちらも、もう笑うしかない。三三師匠の声のトーンの良さが実に心地よく、語りひとつで心が揺り動かされ、自然と広角が上げさせられてしまう。こちらは噺を聴いていただけなのに、聞き上手の人に話を聞いてもらった後のような満足感に浸りながら、会場を後にした。

 

取材・文:宮崎新之