『BOAT』作・演出 藤田貴大 インタビュー

相変わらず藤田貴大が止まらない。作品を完成させる早さ、つくる作品の多さ、関わるジャンルと地域の広さは、もはや留まることを知らないようだ。主宰するマームとジプシーの10周年を記念した昨年度の怒涛のスケジュールを終えても疲れは見えず、むしろエネルギーがチャージされたよう。

それを存分に注ぐであろう新作が『BOAT』。東京芸術劇場プレイハウス3度目にして、いよいよ初のオリジナル戯曲で勝負に出る。しかも藤田が初めて、社会への危機感を明確に打ち出す作品になるらしい。青柳いづみ、豊田エリーら藤田演出経験組と、中嶋朋子、宮沢氷魚という新鮮なキャストを得て、ここ数年の総括であり、次の章の幕開けとなりそうな作品が動き始めた。

 

──公演数の多さに気を取られがちですが、この数年、マームとジプシーは活動の中身が変わってきているように感じます。

藤田
「マームとジプシーって一体どんな集団なのか、もしかしたらイメージが伝わりにくくなっているかもしれません(笑)。レギュラー的に出演してくれる俳優はいますけど、毎回かなり意識的に顔ぶれを変えていますし、そもそも固定したメンバー(劇団員)ではないですし。作風みたいなものも、昔だったら「◯◯◯だ、なあ〜」といったせりふ回しや、リフレインという手法を共通して使っていたから、それが僕の手癖だと言えたと思うんですけど、最近はそこからも離れています」

 

──変わったというより、太くなったというか。たとえば、ジャンルの異なるクリエイターとのコラボレーションは、2012年から取り組んでいることですが、ミュージシャンの大友良英さんとは福島で中高生たちと作品をつくったり(『タイムライン』17、18年)、川上未映子さんの短編小説を青柳いづみさんがひとりで演じる『みえるわ』を全国のライブハウスでツアーを行ったり(18年)、4歳以上を対象にした『めにみえない、みみにしたい』(18年)をつくったり、より多くの人や地域へアプローチすることが前提になっていますよね。

藤田「それはたぶん、僕が風通しの良さを考えていることと関係していると思います。どの企画でも、外側に対しても内側に対しても、そのことはかなり考えています。たとえばファッション関係や音楽業界の人たちは「生まれて初めて生の演技を観ました」という人ばかりで、マームのことも知らないし、演劇に対する先入観もない。でも、すごく感動して何かを感じてくれているのが伝わってきます。そういう様子に接すると僕自身、その何かこそが、マームなんだろうなと気付かされるんですよね」

 

──風通しと言えば『BOAT』のキャスティングも、映像も舞台も経験豊富な中嶋朋子さん、これが初舞台になる若い宮沢氷魚さんという顔ぶれに、いつもとの違いを感じます。

藤田「キャスティングは劇場(東京芸術劇場)の方が頑張ってくれて、とても満足の行く人たちが集まってくれました。俳優たちにはまず、さっきの風通しの話をしたい。つまり“マームってこういう集団、こういう作風”というものはなくて、すでに僕と作品をつくってきた俳優がいても、あまり意味はなくて、この作品に集まったメンバーと、まったく新しい特別な時間をつくっていきたいんだと稽古で伝えていきたいです」

 

──あらかじめマームとジプシー特有のスタイルがあり、劇団員はそれを体得していて、客演の人はそれをお手本にするのではない、ということですね。全員が「せーの!」で『BOAT』だけの何かをつくる。

藤田「そうです。そのムードをつくらずして、何が新作だろうと思うんですよね。この作品に限らずですけど「今回のメンバーがいてくれたから、僕はここに到達できた」というものをつくりたい。僕が目指す場所があって、そこに行くためにみんなに頑張ってもらうとか、たとえば青柳いづみを今いる場所より先に行かせたいとかでは全然ないです。プレイハウスでやることも、『BOAT』という作品に取り組むことも、このメンバーに出会ったのも、全部が横並びになっている大事なことだし、自分の中ではひとつの流れとしてつながっている。作品の内容とは別に、そういうことも観ている人に伝わったらいいんですけど」

──とは言え『BOAT』はまったく新しい話ではなく、『カタチノチガウ』(15、16、17年)、『sheep sleep sharp』(17年)の流れを汲んでいて、それらの完結編なんですよね?

藤田「それぞれ独立した話なので、連続ものではないんですけど。そもそも三部作にしようと考えていたのではなくて、『sheep〜』を書く時に『カタチノ〜』とつながっている場所の話になったんです。『カタチノ〜』は、丘の上に住んでいる三姉妹の話で、登場人物のひとりがラストでお屋敷を出るんです。すると、戦争なのか大きな天災があったのか、町がすごく荒廃している。その中をしばらく歩いていると、まるでどこかから転がって来たように劇場が落っこちているという、ちょっと突拍子のないシーンで終わるんですが。『sheep〜』は、姉妹のお屋敷がある町で起きた一連の殺人事件を描きました。『BOAT』もその町がある世界の話で、『カタチノ〜』で三姉妹のひとりがお屋敷を出てから出産してその子と帰ってくるまでに起こった出来事を描きます。つまり、その町がなぜ荒廃したのかの答えが『BOAT』にあるんです。
今、考えているストーリーは、ある土地に、ボートに乗った人々がやってきて、やがてそこは繁栄する。しばらくしてまたボートが漂着するんですけど、人々は、自分もボートに乗ってきた人間の末裔なのに見向きもしない。ところがある日、町の上空が不思議な飛行体で埋め尽くされて、人々はそれを「ボート」と呼んで脅威に感じ、またボートでその土地から逃げていくという……。『カタチノ〜』のエンディングは、人々がボートで逃げていったあとの光景というわけで、同じ人物が出てくることはないんですけど、3作とも同じ世界の線上にある話になります」

 

──全体を合わせると、かなり大きな時空間を扱うことになりますね。

藤田「だからいつか、これを1本の小説か何かにしたいんですよ」

 

──それは楽しみです。そんなふうに3作に渡って物語をつくるほど、藤田さんの頭の中にはっきりとあるその世界観は、どこからどう生まれているんでしょう?

藤田「まず、生まれ育った北海道の伊達という町を20代の頃に描き続けたことが、良くも悪くもあると思います。実在のひとつの町を描き続けたこだわりは、振り返ると、自分でも少し異様なほどだった気がします。「そこまで(ひどい場所)じゃないでしょ」と何人にも言われましたし(笑)。でも、それで賞も獲って(11年、『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、塩ふる世界。』。翌年の岸田國士戯曲賞受賞)、自分で見てきたものや自分の記憶で物語を描いて、どこまでリーチが伸ばせるかということを、僕なりにかなりやってきた。自分の記憶にこだわるのは、小さな世界ではあるけれど、感情の本当をやれる時もあって、その力をどれだけ強くできるかということでした。
一方で、それだけだと、ある程度以上のところまでは届かないんだと思わされたのが『cocoon』(13、15年)でした。第2次大戦下の沖縄戦をモチーフにした、今日マチ子さんの漫画を原作にした作品でしたけど、実際に起きた戦争と取り組んで届くところがあるんだと、あの作品ではっきりわかりました。戦争をモチーフにして届くものがある、じゃあ戦争を取り上げないとそれはできないのか。もっと小さな具体的なことでどこまでできるか──。女子高のバレー部を描いた『ハロースクール、バイバイ』(10、12、17年)や『タイムライン』は、その問いへの答えだったんですけど、20代の僕は、もしかしたらそのあたりでずっと揺れていたんじゃないかと思います。
で、そのふたつのちょうど良い置き所となるような、自分がすべてを創造する世界がほしいと考えてつくり出したのが『カタチノ〜』でした。神様じゃないですけど、僕が万物を創生してみる。だから美術も小道具も衣裳も、日本なのかどこなのか、いつなのかもわからないニュアンス、おとぎ話かもしれないけど現実感もあるバランスを考えて作品を構築していったんです。『sheep〜』は、執筆当時に起きた実際の事件(相模原市の障害者施設で起きた元職員による殺傷事件)も念頭にはありましたけど、自分が考える殺人を、枯れ果てた、でもちょっと牧歌的な場所を舞台に描くことをやりました。
このやり方にそろそろケリをつけたい、1度ちゃんと終結させたいと思って取り組むのが『BOAT』です」

 

──自分の体の内側にある生まれ故郷の話と、その外側にある自分では体験し得なかった歴史。その二者の間で揺れていた藤田さんが、3つめの選択肢として脳内の広げた国を演劇という形でアウトプットするのが、一連の3作になるということですね。ちょっと、ジオラマづくりっぽいです。

藤田「そうそう、ジオラマですね。地図も建物も人物も、何から何まで自分でつくり出して、それを自分で俯瞰して」

 

──「その“俯瞰”と関係しているのかもしれませんが、『BOAT』というタイトルは、藤田作品には珍しいシンプルな名詞ですね。かえって、いろいろな意味が込められそうです」

藤田「さっきも言ったように、海から流れつくボートと、空からの飛行体をまず指しますが、それぞれ外からやってくるわけで、自分のルーツであったり、外敵という意味はきっと出てくると思います。
でも最初は、なんとなくおしゃれだな、そういうタイトルの演劇があったら僕は観たいなと、本当にそれくらいの感じだったんです。それが「これをタイトルにしよう」という確信に変わったのは、去年、北朝鮮から漁船が続けざまに漂着したニュースを聞いていてです。中で人が亡くなっていたり、乗組員は見つからなかったけど確実にいた痕跡があったり、設備はボロボロなのにiPhoneの充電器が見つかったりとか、報道されましたよね。それについて日本人はあまり良く思わないというか、「北朝鮮の人は大変なんだろうね」的な薄い関心を向けている人が多かった気がするんです。でも僕はそこに、日本が海に囲まれた島国で、よその国からの距離感といったことを考えるヒントがある気がしたんですよ。そこからさらに『カタチノ〜』や『sheep〜』と頭の中でバーッと繋がったタイミングがあって、このモチーフなら行ける、と思って決めました」

──前2作に共通する世界観は、おとぎ話のような、牧歌的な空気も流れているとはいえ、ベースはデストピアですよね。『BOAT』に流れる空気もやはり暗いものになるのでしょうか?

藤田「暗いかどうかは、最近まで自分でもわかっていなかったんですけど……。
僕はチラシやポスターに役者の顔が出てくるのは好きじゃなくて、あまりつくったことがないんです。でも今回は、とにかく(宮沢)氷魚さんが美しいから「これは行ける」と思って(笑)、久々に役者の写真を使ったチラシをつくったんですね。彼の姿を見ていたら、この人をマジで追い込みたいという欲求に駆られますね(笑)」

 

──稽古で?それともストーリー上で?

藤田「ストーリー上で。何と言うか、その土地にとっての異邦人、マイノリティな存在、誰も味方がいない役をやってほしいと直感的に思いました。だから、暗いかどうかというより、孤独は確実に描きます。戦争に負けた、勝ったという大きな歴史も扱いますけど、僕が本当にやりたいのは、正義が悪かを分ける以前にも孤独は生まれるし、正義の中にも差別はあるということです。それを描いていくと、結果、暗くなるのかもしれません」

 

──『BOAT』というタイトルでもうひとつイメージするのは、行き来するという運動です。藤田さんの体と外側の歴史を行き来する、まさにこれから生まれる作品そのものがボートだなと。

藤田「これは書いてもらっていいんですけど、最近、具合が悪くなってきているんですよ、現在の政治を見ていて。政治だけじゃなくて、セクハラを始めとする女性に対しての態度や問題などは、あまりにもみっともないしひどいと思う。僕はこれまでそういった問題に自分の言葉をあまり費やしたくないと思っていた部分もあったのだけれど。でもやっぱり、現在の状況を見たり聞いたりしているとこのままではいられないなと。
そんな中で『BOAT』というタイトルをつけたのは、ファッション的な受け取り方をする人が何割かいたとしても、ボートと聞いて、まさに内側と外側を意識しない人はあまりいない気がしたんです。まったく政治に結びつかない人がいてももちろんいいですけど、これは明らかにそのことだと思うタイミングがあってもいい。
こういうテーマを演劇作品にすることは、野田秀樹さんはやっぱりとても上手ですよね。すごく遠いところから、観客をある現実にたどり着かせるじゃないですか。その手つきはものすごく格好良い。僕は同じようなことをするつもりはありませんが、自分なりに踏み込んだものができる気がしています」

 

──とすると『BOAT』は、三部作の総括であり、初めての藤田作品になるんですね。

藤田「はい、前の2作を観ていなくても関係なく楽しんでもらえると思います」

 

インタビュー・文/徳永京子
写真/ローソンチケット