Baobab『アンバランス』北尾亘×富岡晃一郎×佃井皆美 インタビュー

「AI×ダンス」が切り拓く、未だ見ぬダンスの可能性

主宰の北尾亘が全作品の振付、構成、演出を行うダンスカンパニー・Baobab。土着的でリズミカル、どこかユーモラスで躍動感溢れる群舞を強みとする団体だ。結成以来、作品ごとに打ち出される主題や世界観によって、ダンサーのみならず、俳優などの存在も擁しながら国内外で圧巻のパフォーマンスを発表し続けている。

そんなBaobabによる第13回公演『アンバランス』が、7月22日(木・祝)よりシアタートラムにて上演される。本作は、2010年に初演されたBaobabの代表作の再演だ。2020年より始動した、Baobabの過去作品に光を当て、“現代的作品”として生み直す「Re:born project」の第2弾となるもので、2021年1月にサントミューゼ上田市交流文化芸術センターにて2週間の滞在制作、上演を行い、2月には神奈川県立青少年センタースタジオHIKARIでショーイングを実施。

この度、スケールアップしたものがシアタートラムで“再誕”する。そんな本作の参加メンバーより、主宰の北尾、富岡晃一郎、佃井皆美の鼎談を実施。本番を目前に控えた現在の心境や、本作にかける想いを語ってもらった。

 

──間もなく幕が上がりますが、現在の心境はいかがでしょう?

北尾:僕も二人にお聞ききしたいです(笑)。

富岡:作品の全体像が見えてきたのが、つい最近なんです。「これが亘くんの作り方か!」と。1ヶ月くらい稽古をしてきたけど、どういうふうな作品になるのか、構成そのものが僕自身は分かっていなくて。それがやっと見えてきたんです。「あ、本当に本番があるんだ」みたいな(笑)。

佃井:まさにそうです。

 

──普段からお二人が軸足を置いている、演劇フィールドの作品づくりとはまた違うと?

富岡:きっと亘くんの中では、いろんなイメージやアイデアのピースがたくさんあるのだと思うんです。これは演劇作品とは違うから、台本がなければ、あらかじめ全体の構成を知らされているわけでもない。その都度その都度に指示されたことに取り組んでいると、気がついたら構成が仕上がっているという。

佃井:点と点が繋がっていくような感じですよね。亘くんのイメージに合わせて全力で身体を動かしていると、いつの間にか作品が立ち上がっているので、すごく不思議な体験をしています。

富岡:通しをやってみて、全体が見えたよね。

佃井:そうですね。

富岡:数日前に、もう本番目前というタイミングで、ようやく通しをやったんですよ。あれでも早い方だって言ってたよね?

北尾:早い方なんです(笑)。でも今回の作品に関しては、すでに1月と2月に上演があったので、それを事前にシェアしていました。なので、スケールアップさせるにあたって、正確に言語化できていたかは分かりませんが、「いま取り組んでいるこのシーンは、あのシーンに該当します」などと伝えているつもりではありました。

佃井:あ、それはたしかに。

北尾:今回は再演であり、下地になるものがあります。でもこれが完全な新作となると、あの数日前の粗通しのようなタイミングで、ようやく「はじめまして」となることがほとんどなんです。ドラマトゥルクの中瀬俊介さんも含めて協議しながら、全体像を見すえつつシーンを作っていますね。これはもしかすると、ダンス特有の作品づくりの方法なのかもしれません。本作はある程度のプロットは立てていますが、戯曲もないですしね。シーンが楽曲と紐づくことが多いので、そういった意味では、音楽でいう“アルバム作り”や、“オーケストレーション”に近いのかもしれません。

富岡・佃井:なるほど!

北尾:時間感覚と作品全体の緩急のリズムをすごく気にしながら、各シーンのピースを作って、並べてみてから、詰めの作業に入っていく。普段からこんな感じですね。初めてご一緒する方には「ごめんなさい」と思いながら……。

 

──この北尾さんの作品の作り方はいかがでしょう?

富岡:不安にはならないよね。亘くんの佇まいや発言には説得力があるし、僕らは身を委ねれば良いんだなって。

佃井:数日前にようやく通しだったとはいえ、「これ、本番に間に合うのかな?」なんてことは思いませんでした。

北尾:今回お二人には初めてご参加いただいて、僕自身もいろいろと考えさせられます。演劇作品とダンス作品の作り方の違いや、もっと踏み込むと、「俳優とダンサーは生き物としても違うんじゃないか?」なんてことも。そもそも、自分を表現したくて踊っているという方は、あまりBaobabには集わない印象があるんです。なので富岡さんに「身を委ねよう」と思ってもらえたのは、普段からの環境づくりが上手くいっているからなのかもしれません。

 

──そもそも富岡さんと佃井さんにとっては、初のコンテンポラリーダンスですよね。

富岡:身体だけじゃなくて、考え方にもいっぱい刺激を受けますよね。これまでダンス作品を観ていて、その観ているときには気にならなかったんだけど、やる側になって思うのが「ダンサーさんって、どういう気持ちで舞台に立っているんだろう?」ということです。俳優は役を演じますよね。それに対してダンサーさんは、ある種の“役”として舞台に立っているのか、それとも“自分”として立っているのか。

佃井:分かります!

富岡:これに気づいてから、すごく悩み始めちゃって(笑)。いまだに解明できていないところです……。

 

──富岡晃一郎という一人の人間が、人前で何かをする照れや恥ずかしさみたいなものがあると?

富岡:それもすごくある……。僕自身のダンサーさんのイメージって、「ステージ上の私を見て!」「楽しい! 気持ち良い!」みたいなスピリッツを持っている人々なんです。だから、そうではない人々を集めて公演をするのだとなると、「じゃあみんな、どういう気持ちで踊ってるんだろう」……っていう。

一同:(笑)。

富岡:ちなみに演劇との大きな違いとして感じているのは、自分の生活に持ち帰らなくちゃいけないものの量。演劇の場合、その日に演出家から言われたことを自宅で思い返したり、セリフについて考えたり、稽古場の外でもずっと役のことを考えちゃうから。それに対してとにかくいまは、亘くんの言うことに必死についていこうという気持ちでいっぱい。あ、でも日常に戻った際には、例えばお皿を洗いながら“北尾亘メソッド”の身体ワークをやってる(笑)。

北尾・佃井:(笑)

佃井:私は稽古の序盤の方で亘くんに、「これは役を演じるつもりでいた方が良いのか、それとも素の自分でいた方が良いのか」ということを相談していたんですよ。上田やHIKARIでの公演から参加しているメンバーが、一度まず踊ってくれて。次に、今回参加する私たちもやってみようということになりましたよね。あのときに、先に踊るメンバーを観ていて、「ホンモノのダンサーさんだ……」と、自分とはかけ離れたものを感じていたんです。だから自分がやるときに、すごいおどけちゃって。

北尾・富岡:(笑)。

佃井:「楽しませよう」みたいな気持ちがそうさせたのか分からないんですけど、どこか本当の自分ではない状態で表現しちゃったんです。そのときに、役みたいなものを被っていた方が、私の場合はドンとしていられるなと思いました。普段こうして誰かと話しをしているときでさえ、どこか取り繕ってしまう部分があります。なので、本当に一人っきりでいる素の自分の状態で舞台に立つ感覚が必要なのかなと。余計なものを削ぎ落として、自分自身と向き合う大切さと難しさを実感していますね。

 

──それはひるがえって、「役を演じなさい」と言われたときに、いままでとはまた異なる役との向き合い方ができそうですね。

北尾:そういう話、してたよね?

佃井:そうなんです。この作品を経て、セリフのやり取りがメインのお芝居をやったら、まるっと感覚が変わっているんじゃないかって。

北尾:悪影響になっていないことを願います……。

一同:(笑)。

佃井:私は長くアクションをやってきましたが、アクションって、お芝居があるからこそ生まれるものなんです。つまり、感情があるから動作が生まれる。だからこそ、動きが主体のように見えても、やっぱりお芝居が重要なんですよね。このことをアクションで学んできました。これが、コンテンポラリーダンスには通じるものがあるなと感じています。

富岡:おお。

佃井:私はジャズダンスもやってきたのですが、踊っているときに、お芝居との関連性を感じたことは無かったんです。さらに最近だと、アクションにも慣れすぎてしまって、ただの“動作”になってしまうこともありました。お芝居とアクションが分離しているというか。でもコンテンポラリーダンスに触れてみて、「あ、ダンスもお芝居だったんだ!」ってことに気がついた瞬間に、“お芝居”、“アクション”、“ダンス”のすべてが繋がりました。

富岡:それはつまり、コンテンポラリーダンスを踊っているときに、“感情”のようなものがあるってこと?

佃井:お芝居をやっていると、感情って動くじゃないですか。コンテンポラリーダンスをやっているときも、同じように感情が出てきちゃうんです。もちろん、ジャズダンスをはじめ、「楽しい」だとか、感情を持ち込むダンスはあると思います。でもそれ以上に、コンテンポラリーダンスの感情を自分に引き寄せる感覚というのは、すごくお芝居に近いなと。私の中に少しだけ生まれていたアクションに対する不信感みたいなものも、今回で払拭できた気がします。

北尾:それって、僕がかつてジャズダンスに抱いていた感覚と似ているかも。ジャズダンスに対する懐疑的な気持ちが埋まったのは、コンテンポラリーダンスに出会ったからなんですよ。いま話を聞いていて、ビックリしました。もちろん、何をお芝居や演技と捉えるかにもよります。でも例えば、ミュージカルであれば、息が切れていたりするのにも関わらず、自分の身体にウソをついて笑顔を見せたりしますよね。

富岡:なるほどなるほど。

北尾:それにちょっと違和感を抱いていたんです。自分の感情にウソをつきながらも、お客さんに感動を手渡すものが、エンターテインメントなのだと。でもコンテンポラリーダンスというものに出会っちゃったもので、もうウソはつけないなと。僕の師匠の教えもあるとは思うんですけど、自分の感覚を信じるだとか、観てくれている方に“見せる”のではなくて、“さらす”ことができるかどうかが大切。師匠に「ありのままの自分で舞台に立てる感覚を持ちなさい」と教わったのですが、そのときに「自分に意識を向けて良いんだ!」という発見があったんです。皆美にとって、怒りや憎しみみたいな感情をアクションに繋げることをお芝居だとするのなら、僕にとってはBaobabの激しい振付などを実践している時間の中に、本当の自分の感情が見えてくる感覚があるんですよね。これが僕が「ダンスって豊かだな」と思う理由であり、この集積が群像になっていくさまを、作品で描きたいと思っています。

 

──約10年前の作品である『アンバランス』を再構築し、「AI×ダンス」とした狙いは何でしょう?

北尾:過去の作品を再び手がけるというのはなかなかないことなので、プロジェクトとしてずっとやってみたかったことです。なのでいま、すごく充実しています。過去作に対して、何を引き継ぎ、何を変えていくのかの選択と決断を、上田での制作の時点で一度しているので、今度はそこからさらに可能性を拡張することに手をかけています。視点を変えて、この作品を捉え直そうと。根底にあるのは、約10年前に作った作品の原初体験を、いま再び味わえるのだろうかということへの興味です。つまり何が変わっていて、何が変わっていないのかを再考するということですね。なぜ「AI」というものを導入するのかというと、「2021年における『アンバランス』とは何か?」ということを考えたかったからです。初演時は22歳で、あの頃は自分の見えている世界の中だけでの衝動で、作ることができた。でもあれからいろんな出会いがあり、社会を知り、その過程で得たものが、今作には散りばめられています。

富岡・佃井:うんうん。

北尾:でもそれらを作品に宿すのにあたって、作り手の顔が見えないようにしたかった。僕の意思や、僕の想いで作られているということを隠したかった。やっぱりダンスって、作り手の“支配下”にあるものな気がするんです。なのでそれを、「AI」に転嫁しました。そうすることで、僕も舞台に立つときには、みんなと同じように支配される側に立つことができる。みんなでディスカッションしながら作っているので、みんなの共有物でもありますし、“「AI」が作り上げたもの”と捉えてみてもいいのかもしれない作品ですね。

 

文・折田侑駿