桐谷健太 インタビュー|舞台「醉いどれ天使」

名匠・黒澤明がメガホンを取り、名優・三船敏郎が主演を務めた1948年の映画「醉いどれ天使」が舞台化される。映画で三船が演じた松永役を桐谷健太が演じるほか、高橋克典、佐々木希、田畑智子、篠田麻里子、そして髙嶋政宏ら魅力的なキャストが揃った。戦後の混沌とした時代に生きた人々の抱える葛藤をつぶさに描いているこの物語に、桐谷はどのように挑むのだろうか。ポスター撮影の合間、役衣装とメークに身を包んだ彼に話を聞いた。

 

――名作「醉いどれ天使」の舞台版というビックタイトルへの出演になりますが、決まった時はどんなお気持ちになりましたか。

まずタイトルの大きさのことよりも……なんというか“繋がったな”という感覚がありました。三池崇史さんが演出をされるということや、もちろん三船敏郎さんのことも昔から知っていましたし、僕の感覚的なものなんですけど、そういうものが繋がったように思いました。水と水がくっついてまた大きくなるような感じでしょうか。感覚的なものを言葉にするのが難しいんですけど、そういう感覚でした。プレッシャーも今はそんなに感じていません。自分が出せるすべて、その時にできるすべてを出し切れたらと思っています。

 

――映画版と今回の舞台化作品では、どのような違いが出て来そうでしょうか。

僕としては、舞台の方がしっかり答え合わせがされているように思いました。もちろん、映画はとてもすごい作品ですし、その時代の人たちが観てスッと入っていけるものになっていたと思うんですが、現代の人が観た時には分からない部分も出てくる。そこが素敵な部分ではあるんですけど、そこまで説明がされている映画ではないですから。でも、舞台版はそういう部分が、きちんと現代の人にも沁み込んでいくような作りになっているんじゃないかな。すごく好きな脚本です。僕が演じる松永を通してなぜ闇市という場所にたどり着いたのか、どういう想いでヤクザ稼業をやっているのか、どうしてここまで生きることへの執着があるのかが、グッと分かりやすくなっていますし、非常に舞台をやるうえで大切な点だと思っています。

 

――舞台に立つのは2009年の「恋と革命」以来、約12年ぶりとなります。久しぶりの舞台で楽しみにしていることは?

舞台というライブの、生の感覚は、舞台でしか味わえないもの。今の時代は、そういう生の感覚が非常に大切な時代になっているんじゃないかなと感じています。舞台の経験は今回が2回目で、いわばド新人。未知の感覚もありますが、自分の今持っているもの、そして新たに出てくるもの――それが、光なのか影なのか、ドロッとしたものなのかは分からないですけど、新しい何かが出て来そうなので、自分でも楽しみにしています。まだ稽古に入っていないので、演技の部分がどのようになるかは分からないんですけど、やり方として映像と変えようという感覚はないです。ただ、会場の隅々にまで自分の感情やエネルギー、悲しみなどを、波動として響かせていきたいとは思っているので、そこはもしかしたら映像とは変わるかも知れない。稽古の中で、それをどんどん見つけていきたいですね。

 

――このような往年の名作を今、舞台で観せていくことにどのような意味があると考えていらっしゃいますか。

松永という男の悲しさや不器用さ――結局は戦争とう不可抗力に近い経験をさせられたうえで、なぜ自分は生きるのか、生かされているのか。そういう葛藤を、松永は抱えているんです。今は令和ですが、この時代の人たちって、きっと1日1日が非常に濃かったと思うんですね。そういう人間の熱い血が流れている感覚、獣のような感覚を、舞台でお客さまに見せることができたら、それは今の時代にとっても意義のあることではないかと思っています。

 

――演じられる松永という男については、どのような印象をお持ちですか。

自分が演じるなんて思っても居なかったときに観た松永の印象と、演じることが決まって脚本を読んだときの松永の印象って、ちょっと違うんです。映画ではあまり説明がされていない部分もあって、なぜこんなにも不器用なのか、と思ったんですよね。“天使”である医者の言うことをもうちょっと聞いておけば、もっと違う結果になったんじゃないかとか、ちょっと素直になれなかったんだろうかとか、そういう印象でした。演技することを考えて、もっと細かく観ていたらまた違った印象があったかもしれませんが、最初はそういう感じだったんです。でも、舞台の脚本を読んだときは、そういう部分がすごくスッと入ってきた。答え合わせのような感覚でした。戦争に行ったけれど、なぜか生かされて帰ってきてしまった人の後ろめたさ。生きて帰ってきたことは、本来なら“よかったね”とか“おめでとう”って言われて然るべきなのに、この時代の人は“恥”を抱えて帰ってきているんです。故郷に母親を残しているけれど、そこに会いにも行けない。でも、いつかは会いたい――。それは、ものすごい葛藤なんですよね。そんな葛藤がすごく、染み入るように入ってきました。そこをちゃんと表現したいですね。むちゃくちゃエネルギーがいることだと思います。さらに、舞台なのでそれを毎日やらなければならない。終わったら15キロくらい痩せてるんじゃないかな(笑)。そんな日々をどう生きて帰るか……なんて考えていたらダメだと思うので、全力で行きます!

 

――現時点で、松永という役を捉える上で重要だと思っていることはなんでしょうか。

時代というのは大きな部分ですね。こんなでもやっていくしかない、生きていくしかない。普通なら故郷に帰ってもいいと思うのに、時代がそうさせてくれない、しちゃいけないという想いが自分を縛り付けている。稽古まで時間はありますけど、なぜこう思ったのか、松永はどう感じていたのかを、すごく探っている状態です。すごく考えました。戦争で仲間たちが死んでいくというところを想像しただけでも……地獄のようですし。現代の人は、それってほとんど知らないことだけど、深く想像したり、経験した人の話を聴いたりすると、目を背けたくなるようなことなのは事実。でも、そこをもっと掘り下げていかないと。だから今はまだ、自分が(役について)これくらいできる、みたいなことは言えないですね。

 

――演出の三池さんとのタッグについては、どのようなものになりそうだと感じていらっしゃいますか。

三池さんの作品はデビュー前から観ていて、すごく面白い監督だなと思っていました。そういう方が映画を舞台化する中で、どんな演出をやったり、どういう舞台転換をされるのかは非常に興味深いです。三池さん自身、すごくシンプルですごく強いものを撮られる方なので、舞台でもそういう強さが感じられる部分が出てくるんじゃないかなと想像しています。一緒に、風を吹かせられるんじゃないかなと。

 

――最後に、今回の「醉いどれ天使」をどのような舞台にしたいですか?

舞台を後にした時に、何か足取りが変わっているとか、空の色が変わっていたりとか、あの人に会いたいなとか――何かちょっと、舞台に入る前と後で絶対に変わっているものがある。そこを感じてもらえるように、全エネルギーを放出していくので、何か日々に物足りなさを感じていたり、刺激が欲しいと感じていたり、今のままでも充分に幸せなんだけど、何か新しいものを観たいなと思っていたりする人は、ぜひ劇場に足を運んでいただければと思います。

 

取材・文/宮崎新之